天風哲学、安定打坐法2016年03月23日 16:31

安定打坐法
           昭和31年、京都夏期修練会(抜粋要約) 
 安定打坐法とは率直に言えば「天風式坐禅法」と言うのです。
坐禅というのは何だと言えば、やさしく結論してしまえば、心鏡を払拭して煩悩を解脱せしめて悟りを開くというのが目的です。この「心鏡払拭」が、坐禅では 非常に難しいと考えられているんだ。これは難しく教えるから難しくなるのであって、特に宗教家の説く坐禅というのは、一番会得困難なポイントが一つある。それはなんだというと、坐禅の一番大事とする三昧境ということがはっきりつかめないのです。
 初心の間は、それを説く人もたいていの人は、三昧境を一心の境と呼んでいるんですが、しかし厳密に言うと、一心の境が三昧境でなく、「一心の境は、三昧境に達する道筋」なんです。では三昧境とは何だと言うと、天風会のいう「霊的境地」です。だから坐禅の目的は、心を霊的境地に入れる特別な修行と考えていいんだ。
 そこで心が「霊的境地」に入ればどうなるかというと、宇宙の根本主体と人間の生命とが一体になるということ。そして一体になれば、宇宙本体がもつ限ない叡智が、人間の心の中に受け入れられるということになる。安定打坐というのは、心に特殊な方法を行わせて、きわめて簡単に、坐禅の教義の中で一番難しいと言われている三昧の境地に入れさせる方法なんです。
 そこでこの方法を教える前に一度ぜひ理解しておかねばならないことが一つあるから、そいつを一応説明します。
 元来、この人間というものは、その本性においては宇宙の根本主体と一体になるものですよ。宇宙本体の心の中にある無限的な叡智というものが、我々の命の中へ流れ込んで来るように自然にできているのです。
 そこでどうすれば一体となれるかというと、これは昔の坐禅を人の言葉の中に無いのですが、これは私が苦心した結果、発見したもので、心をトランスの状態にすればいいわけです。トランスとは何だというと、無念無想の状態になることです。「無念無想、いゃ〜そいつは難しい」と、たいていの人は言うのですが、 それは結局、無念無想という状態を正しく理解していないからなんです。なかには無念無想というのは、何かこう夢、幻のような、混沌模糊たる精神状態のように考えるという滑稽な人もおります。そこで無念無想とは、わかりやすく言うと、心が生命の一切を考えない時のことを言うのです。もっとわかりやすく言え ば、心が肉体のことを考えず、また、さらに心が心の動きを思わない時、よろしいか、それが無念無想。わかったでしょう。
 しかし、これが普通の場合なかなか普通の人にはわからないんですが、とにかく心を無念無想の状況にするともう黙っていても、すぐさま宇宙本体と人間との生命はパッと密接的に合流してしまう。心が即座に霊的境地に入るがためなんです。
 人間の心の動きは、「本能境地」、「理性境地」、「霊性境地」と、三つに分かれていて、霊的境地というのは、宇宙の一切を創る根本要素である。この宇宙本体の生命の中にある「霊気」の実在するところ、宗教的に言えば、神、仏のいますところといえます。
  しかし、この霊的境地が特別なところに用意されていると考えちゃだめです。我々が打坐している目の前にあるんだから、かぎりなく遍満存在している。この我々の住んでいる大気の中にあるんだ。しかし、我々の心に煩悩、雑念妄念というようなものがあると、その中へこちらの命が入っていかない。
 こう言うのが一番いいかな、自分という本体は霊という一つの気体で、心と肉体とはその道具だと教えたね、そして心は霊という気体の働きを行う道具で、肉体はその心の働きを表現する道具だと教えられた。だから心が肉体を思わず、また心の働きを思わない時は、生命全体、命の全体が、当然この我の本体である気体を通じて、宇宙創造の根本主体の中に帰納するように自然にできているのです。
 さてそこで、この霊的境地にす〜と入るという方法をお教えする。
 いま諸君の耳にブザーの音が聞こえる時、耳がその音に引かれている時が、無念無想ではではなく、さっきも一心の境とは三昧の境でなく、三昧の境に入る道筋だと言ったね。その一心の境、そしてブザーの音がサッと消えた時だ、その瞬間が無念無想なんだ。
 心が肉体を思わず、心の働きを思わない。しかし、人によっては瞬時に終わってしまうが、2秒、3秒、5秒、時によると、1分、2分もその境地でいられるようになってくる。最初はどうもとかく音が絶えたシ〜ンとした世界にせっかく入っても、すぐに耳に他の音が響いたりしてきたり、体に何かの感覚が来ると、すぐに雑念妄念が入ってくる。目の方はこうやって修行している時だけは、ふさいでいるから目にふれるものはないから、目からの誘惑はないけど、しかし、本当の事を言うと、安定打坐というものは、仕舞いには目をふさいで、こうやって黙然と坐ってやるんではないんですよ。起きていて生活の中にたずさわりながら、心をフッと霊的境地に持って行けるようにならなきゃいけないんだから。
 まぁとにかく、ブザーの音の絶えた時の無念無想の境涯を味わってみよう、、、
  ブザーの音----------------------------------------------------
  この時、諸君の耳はブザーの音に引きつけられているだろう、、、、
  ブザーの音が、いま絶えるょーーーーーーーーーーーーーーX
  音が絶えた刹那だ、

 どうだい、この静かなる世界。初めのうちはなかなか長くもてません。
 この静かな世界こそ、無声の境涯で、ここに心がす〜とした時わだ、さっきも言った通り、心は肉体を思わず、またさらに、心は心の働きを考えない時なのだ。
 要するに特別境涯に心が置かれた時に、す〜と宇宙本体の生命の中へ、あなた方の生命が引きつられるように入ってしまうというが、いいかな、主観的な方から言ったら「飛び込んで行く」という言葉で言ってもいい、さぁ、もういっぺん味わってごらん、、、、、

  ブザーの音--------20秒----------------------------------------
 いいかい、いま音が絶えるぞーーーーーブザー音10秒----------X
 どうだ、この要するにこの世界、、、、
 この世界に本来からいったら、どんな場合にでもフッと切り換えられて、置き換えられるようになれば、もう立派な人間に、いわゆる、出来た人間になったわけだ。
 そしてなんぞはからん、その時に宇宙本体と人間の生命がピタリと結び合わされた時だから、したがって、宇宙本体の持つ万能の力が我々の生命のなかにも分量多く分ち与えられる時なんだ。
 だから今後とても、何か非常に名案工夫を必要とする時とか、あるいは心に迷いが生じた時、これはしょっちゅうあるだろうから、病いや運命が良くない状態が襲ってくる場合には、必ずそりゃもう凡夫凡俗という者は雑念妄念の虜になる。そんな時に、これは当たり前だというような考え方を今まで通りしておるとだ、しまいには死んでしまうという馬鹿なことになってしまう。運命だってその通りだよ。
 そういう時に心がフッと無念無想になれば、まぁ早く言えば、打ち込んで来る相手の太刀を、フッと気をかわしていなしたのと同じなんだ。どうですこういう 極めて簡単明瞭な方法で、要するに命を襲う敵ともいうべき病いや不運というものから、安全な所へ自分の生命を移しかえる事ができるということを、今まであなた方は知らなかっただろう。これを坐禅の方で行って習おうとすると、10年、20年、人によれば一生かかっても駄目かも知れん。
 もちろん私はこういう方法でもって修行したんでない。ブザーのような簡単なものでなくて、千年も万年も落ちているであろう瀧のわきに行って坐らされ、瀧の音だからどんな場合があってもブザーの音のように中断せしめることができない。もうゴーゴーと耳を聾せんばかり、それをとにかく、毎日、毎日、朝から夕方まで、そこに坐っていたんだから、最初はその音に心が引きつけられて、もう何も他の音が聞こえないくらいうるさい、そして雑念妄念が雲のごとくわいてくるが、次第に不思議な事には、その音に心が一心されてくると、音なき世界と紙一重のところになるから、そうすると、1ヶ月、2ヶ月ではなれなかったけれど、半年、8ヶ月とたつ間に、ふと、その後から気がついてみると、この瀧の音と自分の心が離れている時があるんだな。離れている時というのはつまり瀧の音がしているけど、耳がこれに関係しないかかわり合っていない、それで何も考えない無念無想の境涯に入っている瞬間を何べんも味わえるようになり、仕舞いには朝から晩まで、まさに確かに瀧壷のわきに坐っていたんだが、時によると、30分、1時間くらいは、瀧の音の中にいながら瀧の音から離れて、心がジーッと空の世界に置かれている時の方が長くなったというふうになってきた。
 もちろん自分では気がつかないけど、先生から、「だいぶ出来てきたな〜」と言われたんで、ハッと気がついたんだ。言われた当座は、やっぱり言われたためか、今度はそうなろうとする努力のため、また元の木阿弥にたち帰ろうとする傾向があったんですが、まぁ、習は性、毎日、毎日の練習というのは、自然と天性に なってきて、何時でも瞬時にパッと、心を霊的境地に置き換えることが出来るようになった。
 それからはもう早いもので50年近い歳月がたっていますが、お陰というか有り難いもので、それから後というものは、まぁ、何べんかそりゃこんな身体ですから、医者が首を傾けるような病いにいくどか冒された、あなた方はインドから帰って来てから、現在あるかの如き、頑健、鉄の如き身体になったと思ったら大 間違いなんだ。こうなるまでには、5年に一ぺん、6年に一ぺん、医者が首を傾けるような病いに冒されたことがあるんですよ。何しろ肺に故障があって、いわゆる完全無欠ではない身体だから。
 けれども、その時だ、有り難いことだな〜、フッと心が病いから離れて、無念無想の境地に入ることが出来た。別にそうしようと思わなくとも、自然にそうなり得たのは修行のおかげだ。
 だからこんな不思議な身体の人は無いと医者から何べんも言われるくらい、いつもスルッ、スルッとこの危ない瀬戸際から体をかわして今日まできている。考えてみるとそれは健康的な事ばかりでなく、運命の方だってしょっちゅう、もう随分と危ない瀬戸際に立たされていながら、本然の自覚というものは、こういうふうに心を使う習慣から、別に意識しなくても危ないところで、何時でもスースーと、体をかわしてくれたんだな。
 また諸君にこうやってお話をする際でも、別にものを考えてしゃべるわけでもない、参考のために本やなんかを読むものの、いざとなりゃもう瞬間、瞬間に、私の頭の中から出てくるインスピレーション、そのインスピレーションというのは、心が空になった時にスーッと出てくるんだな。
 とにかく人間というものは、変化と変転の中で活きている。その変化と変転にいちいちかかわり合っていたら、そりゃ〜もういくらがんばっても、長生きできようはずがない。いたずらに心に無駄な荷物を背負わせていることになる。だから理屈抜きに、心というものを無声の境涯に、いわゆる無念無想にする事。宇宙本体と合体すれば、もう大きな収穫が得られる。
 簡単に考えてもそうだろう。「疲れたら休め」という言葉がある通り、肉体だって疲れたら休まなければ元の力がでてこない。心もまた然り。絶えず何事かを思わせ考えさせていたら、心は疲れてしまう。だからこのブザーの音の絶えた無声の境涯、すなわち霊的境地こそは、心の旅路のオアシスだと思っていいわけだ。ヒョイヒョイと心を休めてやる。だから1日に何べんでも休めたっていいわけだ。心ばかりは肉体と違って、肉体はもう面倒くさいから動かずにいようと、 自分の意識でもって運動を止めることが出来きますが、心の方は運動を止めようと思っても止まらない。心は能動的なもんだから、絶えず何かを考えようとする 傾向をもっているから、どんな不精な者でも肉体運動とはわけが違う。だから時々フッ、フッと無声の境地へ心を移してやり、精神生命の疲労を防いで、神経系統の生活機能を休めてやることだ。命を保つためにいろいろの作用を行っている神経系統が疲れずに働いてくれたら、求めなくも丈夫になるのは火を見るよりあ きらかだろう。
 さぁ、それがわかったら、今後、折ある毎に、時ある毎に、目を開いていても出来るように安定打坐を練習しましょう。さぁ、そこで参考のために安定打坐の歌を覚えなさいよ、
 「安定の打坐密法の真諦は 心耳を澄まし 空の声きく」
 心耳を澄まし空の声きく、空の声とは無声の境地、霊的境地で、空の声を聞こうとする時に、無念無想になれるわけだ。もう一つ、
 「心をば、虚空の外に置き換えて 五感気にすな 打坐の妙法」
 いいかい「心をば虚空の外に置きかえて」、虚空の外というのは、何も遠い天の高い所でないんだよ、目の前にあるんだ。空虚というのはいろいろの雑音や、いろいろ響きのある中に、この虚空というものがあるんだ。音無き世界、ここに心を置きかえて、五感気にすな、断然五感を気にしては駄目だぞ。耳に気をとられたり、身体に感じるものに気をとられると、安定打坐の目的が頭から無意味になる。それで五感を気にしないということは、音も聞くな、感覚をとらえるなということでなく、それにかかわり合いをつけないで、心はもうただ無声の境涯に置くということだ。五感気にすな打坐の妙法で、もう一つの方は、
 「心をば 静かに澄ます 空の空」
 これは一番よくわかるな。静かに心を澄まして、空の空へもって行くことだ。
 この3つの歌のどれでも覚えていれば、必ず「ハッ」と思う時に、即座にスーと心を置きかえることが出来るだろう。
 そして心をいつも刹那に置きかえる人間になれば、もう立派な自己統御の根本が創られたことになるんだから。それからの人生は、安心立命の境涯が求めずして来るという、誠にめぐまれた幸福な人間になれるんだから、そこが修行だね。
 一意専心、実践を忘れてはいけない。修行を怠る人にかぎって病いや運命のよくない場合に、すぐにへこたれてしまう。昔の兵法にも、「兵を養うは1日のためにあり。いざ鎌倉の時のために、永い月日をかかっても兵を練るんだ」と、いった言葉こそ誠に尊い。
 変化変転のきまわりない人生、油断も隙もできないような人生に活きているお互いが、本当にうまく生命の安全を保って行く秘訣はだ、消極的なかかわり合いをしないことだ。
 病いでも運命でも、そいつをいきなり相手にして取り組もうとするとすぐ組しかれてしまう。そういう時に、そういうものを考えないで、心を他の全然かかわり合いのない方面へやってしまえばいい。負けるのを承知で取り組んでから放り出されるよりも、柳に風と受け流して、相手にしない方がはるかに安全だという ことを悟らなければ、それが正しい自覚なんだから。
 え〜、いくら言っても尽きないほど安定打坐の説明がありますが、ここから先は、ご自分でおやんなさいな。
 それでは、一生懸命やるんですよ。

なぜ「安定打坐」をするのか?
           (平成元年夏期修練会、真理瞑想「運命を拓く」)
 最後の質問になりますが、なぜ安定打坐をするのですか?

それは、安定打坐をすることで、雑念妄念を除去し、一心から無念無想の無心の境に到入し、本心を煥発させるためです。
 安定打坐を実行して雑念妄念を除去させて行くと、心が集中してきて一心になり、やがては無念無想の状態になり、そこに自ずから本心が煥発されてきます。
もう少し具体的にわかりやすく説明をお願いします。
それでは具体的に5つに分けて説明をして行きます。
 第一に、感覚の統御のため。
 雑念妄念を起こすきっかけは何かというと、感覚の刺激が直接的な動機となります。我々は雑念妄念を除去するにために感覚をコントロールしなければならな りません。五感感覚を脳に持って行くのは意識であり、意識がなければ五感感覚は働きません。ですから意識を明瞭にし、これをコントロールしなければ、刺激が大量に脳に入り込み混乱した状態になってしまいます。
 しかし、脳はそれをうまく整理する機能をもっていて、必要なものだけを取り入れて、不必要なものは入れない自主的な制御機能をもっています。これが脳の いいところでして、もしこの装置がなければ、人間は環境の動物になってしまい、環境にすっかりやられて、受け身的な弱い動物になってしまいます。この制御は意識の対象によって選択がなされ、注意を注ぐと入ってきて、注がぬと入って来ても、少ししか入らないものであります。我々の注意の仕方によって我々の感覚や知覚は制御できるものです。
 ですから「心をば 虚空の外におきかえて 五感気にすな 打坐の妙法」と言ってます。これは感覚のコントロールです。心の持ち方によって感覚は相当に違ってきます。心の持ち方で同じ荷物でも、重くなったり軽くなったり、同じ距離でも、近くなったり遠くなったりします。心をどう置くかによって、日常生活は大きく違ってきます。
 まさに「人生は心一つの置きどころ」です。だから心は積極的に置かなければならないということです。

 第二に、声なき声を聴くため。
 我々が耳で聞いている音の世界はわずか12サイクルから2万サイクル程度です。人によっては3万サイクルまで音として聞こえますが、これらは有声です。 この中にピアノ、オルガン、雷、自動車の音もあって、我々はそれを肉耳で捉えています。犬は8万サイクルと言いますから我々より小さな音でも捉えます。 我々は3万〜12サイクル以外の無限にある音や振動は聞こえません。これを音なき音、声なき声といいます。宇宙空間はこれです。現象界は有声の世界で、本体界は無声の世界です。
 それではこの無声の声を聴く体験はいかにすべきか。無声の声はこれ肉耳をもって聞くにあらずして心耳をもってこれを聴くべしです。心耳は心の感覚で捉えるもので、この心がいわゆる本心です。本心のもつ純粋直感で体験的に捉えていくと聴こえてきます。
「安定の打坐密法の真諦は 心耳を澄まし 空の声きく」です。
 第三に「絶対真」の確立のため。
 天風先生はこの本心を先生らしい表現で「絶対積極」と、言っております。しかし、この絶対積極というものは大変に内容が深いのでもう少し内容を分析してみると、本心は「絶対真」を捉えて行くものです。
「心に塵をつもらざれば、森羅万象おのずから見ゆ」、鏡にほこりがついていると、はっきりは映らない。心がきれいならば素敵な姿が映ってきます。その素敵な心で、宇宙、人間、人生を貫いているところの真理、原理というものを捉えることができます。
 その真理、原理を懸命に捉えようとしているのが科学であります。科学者は純真さがなければならないし、本心が煥発していなければ一流の科学者にはなれません。哲学者もまた懸命に原理を捉えようとしています。これも真であります。
 哲学者は思索と純心直感で原理をとらえます。哲学者も本心が煥発した人でなければならず、その本心で捉えて一流の哲学ができあがります。
「絶対真」にもう一つあるものは、自己の本質を捉えて行くのが本心ですし、宇宙の本質を捉えて行くのが本心でして、これを捉えた時の感動的な体験を悟りといいます。
「悟り」とは「心」偏に「吾」でして吾の心の働きであります。この働きが本心です。
 この本心で捉えた時が、「あ、そうだ!」という、感動の悟りとなります。これは理屈ではなく、本心から湧き出て来るものなんです。これが本当の意味での宗教となってくるものなんです。
 宗教というものは、「お願いします」、拝みますなんてものではなく、生命の実体験であります。科学、哲学、宗教というものは、いずれもこの「絶対真」なるものです。
 そういうものを打ち立てる根本が本心であり、それを「絶対真」「絶対積極」と、言います。

 第四に、「絶対愛」の確立のため。
 彼氏が彼女を好きだというのは、恋であって愛でありません。恋と愛とを間違ってはいけません。恋だったら春になれば猫だってできるんだから難しくない。 愛は普通の人にはできないんです。種を蒔き、芽が出て、葉が伸びて、花が咲き、実を結び、一切を育て繁栄させ、進化向上させようとする大生命の心が愛で す。母親も心と同じですよ。
 本心は愛です。神の心は愛であります。仏の心も慈悲であり同じことです。愛、慈悲、それが思いやり、いたわりということになります。これは本心のところから発動してくるものであります。それが具体的には、正直、親切と言う行動に出てくると、これを倫理、あるいは実践性を強めて行くと道徳になります。倫理というのは論理的研究ですから倫理学で、道徳は実践的です。ですから一流の思想の中には、愛があり、慈悲があり、思いやりがあり、いたわりがあります。それらは宇宙の心であるからです。

 第五に、「絶対調和」の確立のため。
 本心の働きで最高のものは「絶対調和」です。これを人間の営みでみて行きますと、まず絶対調和をめざしているのは芸術であります。美とは調和でありバランスであります。その美というものを捉える心が本心です。きれいな心が野に咲く花を見て「あ〜美しい」と感動し、その美を捉える心が本心です。
 ですから芸術家の心は清らかでなければ一流の芸術家にはなれません。感動的に捉えた美を表現するのが芸術であり、色彩で表現するのが絵画、音で表現したのが音楽、型で表現したのが彫刻、体で表現したのがバレーや日本舞踊、また、文字を使って表現したのが、俳句、短歌、詩、小説、総合的にこれを表現したの が、映画、演劇であります。
 人間は美を追求して行きます。このような高度な営みの本源は本心であります。だから本心を煥発できた人間は一流の芸術家、一流の哲学者、一流の科学者、一流の宗教家になれるのです。ですから、天風哲理でいま指導しています。「安定打坐」というものは、真に人間文化の根本的な資格を皆様に与えているのであります。
 本心の煥発、これはすごい感動となって煥発してきますが、日常生活においてこの心の状態を無心といいます。とらわれのない心、こだわりのない心、邪念妄念のない心が無心であります。日常生活のなかで無心の状態になっている時が、最高の働きができます。
 剣の世界の極意もこの無念無想を理想とし、禅からの無念の境地と、剣からの無想の境地を、「禅剣一如」として追求しました。現代は剣の時代ではないが、我々の仕事上でも無心で行った場合は最高の働きをします。
 何時でも無念無想になれる人というのは強いですね。ですから技のトレーニングとともに、心の安定をはかろうということは、とても大切なことであります。

 以上みてきたように。安定打坐は本心の煥発をもって、科学から、哲学、宗教、倫理、道徳、芸術につながっているのと同時に、日常生活をすばらしいものにしてくれるものです。無心の状態になった時に、我々は素晴らしい生活をやってのけることが出来るのであります。
 ですから安定打坐というのは、ただここで15分だけ目をつぶり、坐ればいいというわけのものでなく、目をつぶって、何時でもどこでも、10秒、20秒で もいいからおやんなさい。心の曇りがさ〜と取れてくるし、心をリフレッシュしてきます。そしてまた本心を煥発してきます。
 いわば、悟りへの直達法が安定打坐であります。
 しかし、いくら解説がわかっていても、実践しなければ理解だけで終わってしまいます。
「安定打坐法は、正当なる思量と断定とを生み出す絶対的蜜法であるから、それを心して践行と努力をすべし」です。
 しばし、姿勢を整えて、安定打坐を行ってください。
信念について
天風哲理は、何のための実践なのですか?
それは、信念を創るためです。
天風哲理のいう信念とは何ですか?
信念とは、肯定と否定の相対を超越したところの絶対なる大肯定です。
信念には3つのタイプがあります。
1、習慣的信念;日常生活の繰り返しの中で、自然に造り出されて信念化されたもの。しかし、自然に信念化された受け身的な信念のために、疑ったりまたその習慣が崩れれば、たちまち信念ももろく崩れ去ります。

2、相対的信念;自らの意志によって造られる自主的な信念で、理性的段階のもの。仕事や願い事の成熟達成するのはこの信念であるが相対的なため、その相対条件に常に左右されてしまう。
3、絶対的信念;
 肯定と否定のこだわりを乗り越えた絶対の心境。
 つまり、無心の境地より自ずと湧いてくる大肯定。
 宮本武蔵の「勝つとも負けるとも思わぬ」心境に例えられます。
 天風哲理は、この絶対信念を教えているわけです。
信念はどこから湧き出て来るのですか?
真の信念は霊性心が煥発されて、そこから湧きいずる高級な意念であります。したがい霊性心に所属しています。誰もが持っている霊性心、本心良心の潜在意識から湧きいずるものですから、誰でも信念の人に成れます。しかも信念は、常に人の生命の上にほとばしり出ようと待ち構えています。
その信念はどうしたら煥発できるのですか?
天風哲理で教えています信念の確立法は:実在意識の積極化、潜在意識の積極化、感情の明朗化、クンバハカ法、これらで心を積極化させるとともに、心を安定化させるための方法として、安定打坐を毎日修行して霊性心を養い、そこから信念が湧き出てきます。
何に対する信念ですか?
信念そのものは自分で実感して獲得せよとしていますが、それはつまるところ小生命と大生命の関わりに対する悟りを信念化することです。
「我が生命は宇宙霊の生命と一体である」この悟りの信念化と確立です。
では、それをどのように信念化したらよいのでしょうか?
天風誦句集で、宇宙霊との一体方法を順々に説明します
(誦句は全部朗読してください):
「大偈の辞」
あぁ!そうだ 我が生命は宇宙の生命と通じている。
「力の誦句」
だから私は強いのだ。私は力だ。力の結晶だ。

「自己本来内省の悟り」、
いみじくもこの真理を悟り、同時にこの悟りを、厳かに信念する。したがって私の心は、如何なる場合にも、恒にその霊を思い、その霊を考え、ひたすらに霊を本位とした生活に活き、絶対なる宇宙霊と同化する尊さを心がける。
「活力吸収法の誦句」
この大宇宙の精気の中に、人間の生命エネルギーを力づける活力がくまなく遍万存在している。私はいま、深甚なる感謝を持って思う存分吸収しよう。
「思考作用の誦句」
同時に、正しい心、勇気ある心、明るい心、朗らかな心という、積極的な心持ちをもって思考し、
「言葉の誦句」
そして、終始、楽観と歓喜と、輝く希望と溌剌たる勇気と調和に満ちた言葉のみで活きよう。
これを繰り返し、繰り返し、自分の心に打ち込んで信念化することにより宇宙霊と一体化への道が開けることになり、信念の人に成れます。
 
天風先生は、夜の寝際にこの暗示誦句集を取り出して、パッと広げてページを真剣に読み、しっかり観念に打ち込んで、その気持ちになって寝入ることを勧めています。
 また、天風哲理における各運動法も、一貫して観念の信念化する考慮がなされています。体を動かすのも、心を動かすにも、言葉にも常に繰り返し、繰り返し、信念化するように考慮されています。
 
それでは、信念のまとめをお願いします。
これは私自身に呼びかけている言葉でありますが;
 絶対的信念とは、肯定と否定という相対を越えたところにある大肯定である。
 真の信念とは、雑念妄念が消え去った時に、いみじくも発動する大覚心である。
 心が無心に澄んでいる時、本心はジ〜ンとする感動をもって真理を捉え、この時に純粋な本心が真理に感応し、それがそのまま信念として定着するのである。
「我が生命は宇宙の根源主体と一体である」、それなるが故に、私は断然強いのだ。
 それなるが故に、宇宙の根源主体の持つ力と叡智と創造性は、我ら人間の積極的な思考、言葉、感情を通して我が生命に導入できるのである。
 結局するところ、天風哲学にもとずく心身統一道を、ひたむきに実践すればよいのである。さすれば真の信念の人に成り得るのである。
 要は「行ずるに信をもって貫けばよい」のです。
 いざという時に、その人を救うものは、理論でも理屈でもなく「信念」です。

【瞑想の方法】中村天風・安生打坐法で三昧の至上境に達入!!
https://www.youtube.com/watch?v=gkP04-BFxBM

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